生涯可能鼓動寿命

君は、生涯可能鼓動寿命を知っているか。

 生物は、生まれた時から心臓が鼓動する回数が決まっている、という説だ。身体の小さい動物ほど鼓動が速く、大きい動物ほど遅いから寿命に差ができる。

 正直かつての僕には信憑性の薄い── 一言で言えば、何それって感じの話だった。

 そんな僕が変な呪いを授かったのは高校2年生の時だ。

 目を開けると見慣れない白い天井が目の前にあった。身体が自分の物でないように重い。大きな怪我や病気にかかったことのない僕にとって、それは初めての痛みだった。

「そうた?」

 痛む頭を横に倒して、僕の名前を呼んだ女の子を見た。

「奏太? ねえ、私の言ってることわかる?!」

 女の子は興奮気味に身を乗り出した。頬を伝う涙は蛍光灯の光を反射して、きらきらと歓喜に満ちている。そのダークブラウンの瞳に僕は見覚えがあった。

「かの?」

 ぱっと口元を手で覆って、幼馴染の香乃は泣き出した。心配した、もう目を覚まさないかと思った。としゃくりあげながら、香乃は僕にしがみつく。

 乱れた髪を整えてあげようと点滴付きの手を伸ばした僕は、彼女の胸の前に浮き出ている数字を見つけた。

 廊下からスリッパの駆ける音が近づいてくる。

 あなたは雷に打たれたのですよ。

 胸の前に数字の浮いた医者はそう言った。火傷の痕は消えないでしょうが、意識もはっきりしているようなので、最悪の事態は免れたと言っていいでしょう。

 医者とほぼ同じ数字の父は黙って僕の頭を撫で、この中で1番大きい数字の母は医者にも抱きついた。

「どうしました?」

 黙って首を振った。

 退院の帰り道、沢山の人の数字を見た。

 大抵子どもは多くて、年寄りは少ない。けれどもまだサラリーマンで少ない人もいれば、車椅子に乗っている爺さんなのにまだまだ多い人もいた。父の数字も母の数字も順調に減っていっているようだ。

 これがいい事なのか悪いことなのか僕にはわからない。

 ようやく家に着いた。タクシーからそろそろと足を降ろしてゆっくりと立ち上がる。リハビリをしたとはいえ、まだぎこちない足をそっと前に出した。

「松葉杖いる?」

「ううん、大丈夫。このまま歩いてみるよ」

 ゆっくりと踏み出し、膝の力を信じて体重をかける。普段行っていた何気ない動作がこんなにも難しいなんて思わなかった。

 季節違いの汗をかき、息を上げて、僕は地面を踏みしめる。心臓の鼓動が足の裏から響いた。

「奏太!」

 首だけで振り返ると香乃が走り寄って来るのがわかった。僕の代わりに母が返事をする。

「香乃ちゃん!」

「おばさん!」

 香乃は方向転換をして母に飛びついた。僕に受け止める力はないけど、何か違うと思ったが、何も言わずに2人を見た。

「ありがとね。香乃ちゃんが奏太に付いててくれて助かった」

「いえ、帰って来てくれて本当によかったです」

「もうしばらく大丈夫そうなら学校にも行けるから、その時は香乃ちゃんお願いね」

「任せてください!」

 元気に答える香乃の数字は減っていた。目を覚ました日の数字は覚えていないが、あと数万はあったはずだ。そうしている間にも数字は段々と減った。

 僕は母と香乃の数字を比べて気づく。香乃の数字の減る速さが速いことを。

 年の若い人ほど平均して数字が多いことは知っていた。病院の中でもおおよそは子どもほど多く、大人ほど少なかった。

 しかし、速さも違うとは。そこまで見ていなかった僕は、某漫画のように残り時間が見えているのかなと思っていたのだ。だが速さも違うとなればそれは成り立たない。それとも体内時計とかで進むのだろうか。

奏太?」

 名前を呼ばれて我に返った。2人は僕を心配そうに見つめていた。

「平気。ちょっと考え事してただけだから」

「ほんとに?」

「うん、先帰るよ」

 香乃に軽く手を振ると、ぎこちなく返ってきた。母は何言か話すと、すぐに駆け寄って来た。

「話しててもよかったのに」

「奏太も一緒じゃないとね」

 僕は黙って、差し出された母の腕を取った。1万の桁が丁度繰り下がった。

「生涯可能鼓動寿命?」

「うん、人って1秒に1回くらい心臓が動くでしょ。だから時間みたいに減ってるんじゃないかな」

 洒落たカフェに似合う可愛らしい格好で香乃はロイヤルミルクティーのストローをくるくるとかき混ぜた。対する僕は普通の半袖シャツにブラックコーヒー。店内の冷房は効きすぎていた。

「ねえ、ていうかそれって自分の数字見えるの?」

「見えない」

「不便な能力だね」

 結局僕の相談相手は香乃だった。

 馬鹿げたファンタジーに付き合ってくれる友達なんかいないし、そもそも例の時見舞いに来てくれたのは家族と香乃だけだった。辛うじてクラスが一緒で話す機会のあった同じ中学出身の生徒は春のクラス替えで別れてしまった。

 まあそれを引いても、高校2年生の夏の時点で話す相手が別の学校の幼馴染しかいないのは絶望的か。

「私の推理、当たってると思うんだよね。結構調べたし」

 名探偵はスマホを弄って、どこかのサイトをタップすると僕の目の前にスライドさせた。生涯可能鼓動寿命の説明を見せてくれるらしい。

 確かに異論はなかった。数字の減る速さが違うことも証明がつくし、病院だとその数字がばらけやすいのも分かる。

「なんて調べたの」

「減る 心臓 動く」

「なるほど」

 僕が検索して出てこないわけだ。そもそも数字が減るというところから鼓動の回数に繋がらなかったから、100年経ってもわからないままだったかもしれない。全く有能な幼馴染である。

「感謝して」

「ありがとうございます」

「形に示して」

「今日の飲食代は払わせて頂きます」

「え、やった。ケーキ頼も」

 ファミレスのような手軽さで香乃は店員を呼び、ケーキを2つも3つも注文した。怒られる覚悟で太るよと注意すれば、ここのケーキ大きくないから大丈夫とあまり大丈夫じゃなさそうな答えが返ってきた。

「僕の財布は軽くなったね」

「へー。どうせ使い道なくて貯めてるんでしょ」

 さすがあしらい方が上手い。半ば関心しながら僕は香乃のスマホにもう一度目を落とした。

 1秒で1回。1分で60回。1時間で3600回。1日86400回。1年31536000回。10年だと315360000回。ふむふむと香乃の数字を見る。

「どこ見てんの」

「数字」

あんまり女の子にはしない方がいいよ」

「そっぽ向いてていいよ。背中側からでも見えるから」

 盛大なため息とともに香乃はミルクティーを引き寄せ、外の景色を眺めた。浮かぶ数字からすると大体あと76年は生きる計算になる。

「92歳

 ひくりと頬が引きつった。これは流石というか何というか。まあ想像通りではある。この性格も変わらないんだろうな、というところまで合っていたらちょっと困る。

「なに」

「なんでも」

 追求しようとテーブルに手を付いた香乃の目の前にケーキが置かれる。ナイスタイミングだ。香乃の興味はたちまちケーキに移った。

「食べる?」

「別に」

「じゃあ万が一残したら食べてね」

 まあそんなことだろうと思ったのだ。

 僕に転機が訪れたのはその約1年後だった。

 やっと大学も決まり、本格的な準備に取り掛かっていた時。図らずとも香乃と同じ大学になり、その参考書か過去問でも買おうとしていた道半ばだ。

 僕は初めて数字が3桁の人間を見た。

 杖をついた老人だった。香乃の推理が本当に正しいのなら、あと8分で心臓が止まる。

 声をかけようか迷った。でも何と言う? 貴方はあと8分で心臓が止まるんですよ、って? しかしそのまま放っておくことも出来ず、僕はその人の後をつけた。

 老人は公園に入ると、噴水の隣のベンチに座り、ゆっくりと空を仰いだ。優しく穏やかな顔だった。

 例えば僕が予め救急車を呼んでいたとして、鼓動寿命が0のままで生き返るのだろうか。急いで心臓マッサージを施したとして、動かなくなった心臓は戻るのだろうか。

 近くの木から鳥が飛び立った。想像よりずっと多い群れが、列を成して空へ飛んでいく。

 大きな力強い音に思わず目を奪われた。それぞれの数字が大体同じ速度で減っていく。数字は夏の太陽を無視して鈍く光る。

「大丈夫ですか!」

 悲鳴のような大声に前へ向き直った。老人が胸を押さえてベンチから転がり落ちていた。慌てて駆け寄る犬を連れた女性。彼女は僕に目を向けて、救急車呼んでください! と叫んだ。

 慌てて取り出したスマートフォンは地面に落ちた。指先に触れた、焼けた地面が熱かった。犬が吠える。ダラダラと汗が背中を伝う。思い通りに動かない指で119番をゆっくりと押した。

 老人の数字は0だった。その0が、ゆっくりと夏の日差しに溶けていく。夏祭りの綿飴のように、透明に変わっていく。僕の芯は急速に冷えていた。

 ああ、もし僕が救急車を呼んでおけば。AEDを持ってきていれば。

 この呪いが初めて役に立ったのかもしれないのに。

「こちら119番です。事故ですか? 火事ですか?」

 セミの声、僕の心臓の音が反響する。

「香乃」

 同じ制服を着た友達と歩いていた香乃は、僕の声にぴたりと足を止めた。

「ごめん、突然」

 香乃の家の壁から、寄りかかっていた体を離す。じわりと汗が残る腕で足元に置いていたカバンを持ち上げた。

 香乃の友達は意味ありげにニヤニヤと笑うと、香乃の背中を叩き、また明日ねと手を振って走って行った。友達の方へ何かを叫ぶ香乃の胸元を見て、小さく溜息をついた。

 ああ、やっぱりそうだ。

 香乃は友達にひとしきり文句を言った後、カバンを持ち直して腕を組んだ。

「なに」

「うん、香乃には話しておこうと思って」

 僕が言葉を選んでいる間にも香乃の数字が減る。しかも、速い。友達と話していた時よりずっと速い速度で数字が減っていく。

 僕は見ていられなくて、自分の靴に目を落とした。

「僕、大学は地方に行く事にする」

 長い沈黙があった。

なんで」

「やりたいことが見つかった」

 嘘だった。僕は香乃から離れたかっただけだ。

 僕は、香乃が好きだった。だから彼女の寿命が減るのを見ていられなかったのだ。ほら、こうしている間にも彼女の鼓動寿命は削れていく。

 加えて、僕が傍にいると香乃が長生きできないのだ。1分に60回しか減らないはずの鼓動寿命が、僕と話すだけで80回は減る。どうしてかはわからないが、僕は香乃の寿命を縮めてしまう。このままだと92歳まで生きるはずの香乃は、予定よりずっと早く心臓が止まってしまうのだった。

「どこ行くの」

「九州」

「いつ

「受かったら3月から」

 答えながら顔を上げて、思わず心臓が跳ねた。

 香乃は泣いていた。僕のよく知る顔が細い指に隠されて、その隙間からぽたぽたと涙が頬を伝っていた。しゃくりあげる肩が、大きく息を吸って、吐いた。僕は何も出来ずにそれを見ていた。

 香乃は乱暴に袖で涙を拭って、充血した目で叫んだ。

落ちろ!!」

 香乃は僕を突き飛ばして、家のドアを開けた。バタンと大きな音を立てて閉まる直前、子どものように廊下を走る音と香乃の母親の怒号が聞こえた。

 それが僕が大人になる前に香乃を見た、最後の姿だった。

 朝起きて、電車に揺られて、仕事をして、電車に揺られて、寝る。幸でも不幸でもなかった。

 相変わらず数字は見えていたけれど、もう気にすることもなく、ごく普通に毎日が過ぎていった。

 眠気を堪えて最寄り駅まで歩く。会議の関係でいつもより時間は早かった。空いているんだろうなとため息が出る。

 前を歩くサラリーマンの足取りにも疲労が見える。年にしては少ない数字はこれまた億劫そうにじわりじわりと減っていた。名も知らないおじさんの丸まった背中がふと自分と重なって、心の中でお辞儀をした。

 今日の昼飯は何にしよう。惣菜パンを買おうとスーパーマーケットの自動ドアの前に進んだ時だった。

 ガツンだとかドンッというような何かがぶつかる音が辺りに響き渡った。驚いて振り返ると車が横転して道を塞いでいるのが見えた。何となく駆け寄って、そして立ちすくんだ。

 車の傍に、足や手があらぬ方向を向いて倒れている男性がいた。そう、さっきのサラリーマンだった。

 込み上がる吐き気を手で押さえ、荒い息を鎮める。彼の背中に浮かぶ0はゆっくりと消えていく。どうして、まだ時間は、鼓動寿命は残っていたはずなのに。確かに僕は見たのだ、彼の寿命があるのを。多少少なかったとはいえまだあったのに。

 バクバクと心臓の音が頭に響く。初めて0になった人を見た時と似ていた。秒針が進むように、リズムを刻むように、一定の速さで心臓が動く。いつもよりずっと速いスピードで。

 過呼吸で倒れそうになりながら僕は気づいてしまう。

 鼓動寿命に事故は関係ないことを。カウントダウン以外でも人は死ぬことを。

 1番最初に顔が浮かんだのは香乃だった。

 高校生のあの日喧嘩したまま10年会っていない彼女は、まだ生きているのだろうか。

 1度考えたら、立ち止まっていられなくなった。確かめたい、彼女はちゃんと生きているのか。

 ぼんやりと改札を通り抜け、来た電車に乗る。会社と逆の方へ行く電車だった。実家の方へ行く電車だった。

 日は徐々に高くなり、ドアに寄りかかる僕を照らす。その頃には外の景色にビルはなくなっていた。

 とっくに息は落ち着いたのに心臓だけは相変わらず速く脈打っている。シャツの上からぐっと押さえつけても、それは収まらない。ただひたすらに会いたい、顔を見合わせたいという気持ちだけが高まって、そしてふと気づいた。

 ああ、もしかして香乃は、ずっとこんな気持ちでいてくれたんだろうか。

 会いたいと胸を焦がし、会えたら嬉しさで胸が踊るような、そんな気持ちでいてくれたんだろうか。

 都合の良い解釈なのかもしれないが、そう考えてみるとあの日の涙の理由がわかる気がした。

 改札から出た。久しぶりにここに立った。何もかも変わってなくて、それがまた新鮮だった。

 頭で考えなくても家の場所がわかる。何かに引っ張られるように1歩を踏み出し、そして僕は走った。

 走るのは酷く久しぶりだった。息が上がる、血が身体を駆け巡る。内蔵が絞られるように苦しくて、切ない。

 どくん、どくんと心臓の動く音が内側から聞こえた。足が竦みかける。駄目だ、止まっちゃ駄目だ。命を削ってでも会いたいから。

 さっきよりも大きく心臓は鼓動を打ち、鼓動寿命は削られる。それでも、それでも香乃に会いたかった。

 実家の隣、香乃の家の前に立つ女性が見えた。

 10年ぶりだ。それでも僕はわかった。

「松浦、香乃さん」

 声が揺れてしまった。ゆっくりと彼女は振り向く。目が合って、鼓動が、速くなる。

「久しぶり、奏太」

 記憶の声と同じだった。僕の呪いが彼女にかかっていないことを心から感謝した。こんな心臓が速いのなんて初めてだ。

「久しぶり」

「なんで走って来たのよ。会社は?」

わかんない、考えてなかった」

 彼女は笑った。僕は額に滲む汗を拭って、ゆっくりと息を吐いた。そこに彼女がいるだけで充分だった。

「香乃はどうしてここに?」

 香乃は長い髪を耳にかけた。

「引っ越し」

「ああなるほど」

「あのね奏太」

 目を瞑って、ゆっくりと丁寧に言う。まるで自分に言うかのようだった。

「もう私、松浦じゃないよ。中野になったの」

そ、っか」

 心臓が止まったかと思った。それでもゆっくりと息を吸った。

「おめでとう」

「ありがと」

 何を言おうかと思った。結局俯いた僕に笑いが降る。香乃のよく知った声はじわりと心臓を炙った。

「まだ寿命見える?」

「見える」

「私まだ多い?」

 香乃の数字はごっそりと減っていたが、それでもまだまだ多かった。こくりと頷くとよかったぁと香乃は微笑む。高校生の時の速さとは違い、今の僕よりずっと遅く減っていく。しかし僕の鼓動はあの日の香乃と同じくらいの速さだった。

「あのさ。今だから言えるんだけど高校生の頃、奏太のことが好きだったよ」

「うん」

「バレてた?」

「今気づいた」

 香乃の数字が繰り下がるのと僕の鼓動が打つタイミングが同じだった。

 きっと彼女がその数字を0にする時、僕は隣に居られない。色々理由はあるけれど、僕の方がきっと先に死んでしまうだろうから。君と会いたくて、会って、嬉しくて。脈打つ心臓は寿命時間を削っていく。

 それでもいいと思えるのだから不思議だ。

 きらりと香乃の薬指につけた指輪が太陽を反射して、ふと空を見上げた。

 雷は到底落ちそうにない、澄んだ青空だった。

 

感想を書く

みんなの感想

まだ感想がありません。よろしければ投稿してください。