文芸部

リレー小説➁非科学的博士

/ 文芸部

傷の有無を確認しようとし、拾い上げたところでその本に違和感を覚えた。見覚えのない本だ。軽くページを捲ってみると、研究についてのまとめ…と見せかけた料理のレシピがたくさん書かれている。…なんだこれは。こんな本絶対持ってない。じっとその本を眺めていると、また別の本棚でバサっ、バンっ、ドスっ、と連続で音がする。視線を本から音がする方へと向けると、白い何かが近くの棚へと動いているのが目に入った。

「誰だ!」

足早に棚の裏を覗きに行く。そこには、部屋に溶け込んでしまいそうなほどに純白な白衣を着た女が、しゃがんでこちらを見上げていた。間違っても、チームのメンバーではない。明るい茶髪のボブ。あどけない顔をしているが、20代前半くらいか。そこまで歳は離れていなさそうだ。博士が頭の中で考えを巡らせている一方で、目の前にいる女は慌てた様子で口をぱくぱくとさせている。何かを話している様子だが、全く声が聞こえない。さて、どうするか。筆談なら話せるか。博士が悩んでいることに気づいたのか、女はハッとした顔をした。そして、近くに落ちていた資料を拾い上げ博士に渡す。この渡された資料も博士には見覚えのないものだった。

「…あぁ、ありがとう。それと、君のオフィスはここではないと思うよ」

話せなくともこちらの声は聞こえるだろうと考え、一方的に話しかける。きっと部屋を間違えただけだろう。コンピュータの予定が狂う前に戻った方がいい。…こちらもあまり時間がないな。女を放ったまま、資料をとりあえず近くの机に置き、またファイルを探し始める。これは先月。あれは去年。目当てのものが見つかる頃には、報告会の時間になっていた。流石にもう帰ったのか、女の姿はない。

報告会と会食、どちらも大きな問題もなく終えることができた。今日も変わり者だとそれとなく言われた気がするが、研究費さえ出してもらえれば、何と呼ばれてもいい。

博士は帰りの車内で、女に渡されたファイルに手を伸ばす。いったい何のファイルなのだろう。他のメンバーの手違いか。実は記憶にないだけで昔から置いていた?だとすると、これは実質新たな心霊現象に関する資料なのではないか。普段は石像のように固い口元が自然とゆるむ。未知のものを知ることは楽しい。真夜中の幽霊探しを始める前の、十二時になる直前の時計の秒針を凝視している時のような気持ちでファイルを開く。…なんだこれは。

目の前のファイルは、博士が期待していた内容とはほんの少しも関係がない。国内や外国の有名観光地がまとめられている。ページの所々には丸い字でメッセージが書かれた付箋が付いていた。

『先輩!ここすごく綺麗ですよ。今度行きましょう』

ご丁寧に文の終わりには笑顔のマークが描かれている。

『このお店、すごく可愛いなぁ。でも、一緒に行ってくれる人がいないんですよね(チラッ)』

…何だ、この文章からでも伝わってくる甘ったるい空気は。すぐにでもこのファイルを自分から遠ざけたくなる。

気持ち早めにパラパラとページを捲っていると、最後のページにはコピー用紙に直接文字が書かれていた。

『来週までには選んで連絡くださいね』

来週という文字を見た博士は、このファイルの持ち主に急いで返そうかと考えたが、その下には二一二二年七月二十六日と書かれている。およそ二年前だ。今すぐ持ち主を探す必要もないだろう。

家に戻ると、帰宅を感知したAIによって明かりがつけられる。光で照らされた部屋は温かみがあるが、置かれている家具は寒色のものが多い。その中で一つだけ浮くものがある。机に飾られた一輪のガーベラ。寒色に囲まれた黄色は、まるで本当に輝いているように見える。博士は、帰宅し、その花を見るたびに懐かしさと安心を感じるのだった。

翌日もいつもと同じだ。AIが一日の予定を博士に伝え、会社に到着する。

「今日は十時からチーム会議、十五時半から心霊現象の研究、十八時に退勤です」

静かな時間のオフィスは、博士にとって研究に没頭できる貴重な場所だ。

さて、とりあえず昨日雑にまとめた資料たちの整理でもしようか。机に積み上げられた資料を確認しながら仕分けしていく。数枚でまとめられているものから分厚い本まで様々だ。大切な資料なら片付けるのも億劫ではない。テンポよく確認していくと、紙の間に挟まっていたものが博士の横を通り過ぎて床に落ちた。それを拾って見てみると、二年前にチームメンバーで撮影した写真だった。これは覚えている。確か、仲間の一人が退職するから記念としてだったか。あの頃はようやく仕事にも慣れてきて、会社に行くのも楽しんでいたな。そんな回想をしながら写真の博士の隣をみると、既視感がある女が笑顔で立っている。明るい茶髪で髪型はボブ。白衣を着ていて—。昨日見た女と同じだ。しかし、彼女が存在していた記憶は博士にはない。写真の二人は仲が良さそうに…いや、どちらかといえば、SNSで昔から人気の動画、犬が猫に近づいて猫パンチを喰らうが、それでも猫に近づくのをやめない犬と同じ匂いを感じる。しばらくその写真を見ながら考えていたが、

「おはようございます!先輩!」

突然の体が包まれる感覚と大きな挨拶に心臓が跳ねる。バッと後ろを振り向くと例の彼女と目が合った。

「私、昨日驚いたんですよ!先輩に『誰だ』とか言われるから」

博士が口を開く前に、彼女がたたみかけるように話し始めた。

「私があげた料理本、ちゃんと読みましたか!?先輩に呼んでもらえるように研究の資料に似せたのに」

「前にも言いましたが、化粧は気分を上げるためにも大切ですよ…そのままでも綺麗ですが!」

「結局連絡くれなかったんですね!楽しみにしてたのに!」

プクーと頬を膨らませながら博士に対して文句を言いまくっているが、どれも覚えがない。