文芸部

リレー小説③非科学的博士 最終回です!

/ 文芸部

博士の様子が思ったのと違うのに彼女も違和感を覚えたのだろう。そのまんまるで大きな瞳をいっぱいに開けている。ついさっきまで膨らんでいた頬はとうに萎み、化粧の大事さを語るのも納得の、大方研究されつくしたようなつやつやした口元はきゅっと結ばれている。博士も、全く身に覚えのない問いかけに、なんと返答すべきか決めかねて黙ったままだ。

二人して息も忘れてしまう程の並々ならぬ緊張が、いつもと全く同じの真っ白な部屋いっぱいに張り詰めた。きっとそこまで長い時が経ったのではないのだが、AIの決めた正しいノルマを達成するために毎日忙しくしているので、随分過ぎたように感じる。そしてその静寂は、二人の人間より先に、次の予定の準備を促す自動アラーム音によって破られた。


ジリリリ。思わず耳を塞ぎたくなるようなけたたましいそれに、ビクッと肩を揺らす。彼女も同じように驚いていて、彼女は彼女で、考え事に集中していたのが現実に引き戻されたようだ。はっとして今一度こちらに視線をやると、初め声をかけてきた時のあの無邪気な笑顔はどこかに行ってしまったようで、苦虫を噛み潰すようにぎりっと食いしばった後、口を開いた。


「先輩、もしかして、聞こえているんですか?」


あまりに神妙な声色に圧倒されて、博士は一言も出せずに、首を一度だけ振った。

博士のその反応に彼女は困惑と納得の色を浮かべて続けた。


「ああ、やっぱり。てことは、そっか。」

「えっと…?」


「先輩、本当は、覚えてますよね。」

 

その一言をきっかけに、何かが一斉に出てこようとして、頭蓋骨にぶつかった。その衝撃は頭蓋骨に細い隙間を開けて、その割れ目からドバッと噴き出す記憶の血流。そしてそれは、ひどくひび割れた皮膚を這っていって、波打つ爪をも潤す。


確かに、彼女は生きていた。二年前までは、確実に。この会社に勤めていて、同じ研究チームのメンバーだった。新入りとして入ってきた彼女に、好奇心に素直そうな人で研究者として結構だという第一印象を受けた。そしてその印象の通り、彼女は自分の興味のままに行動する人で、心霊現象にも関心があるらしい。今見ると笑ってしまうほど拙い私の研究にも熱心に耳を傾けて、湧き出た疑問はすぐに質問してくる。急速に技術の発展が進み、何時でもどこでも無駄が糾弾され合理化が叫ばれる今日ほどではないものの、当時も心霊現象の研究は、無意味ではないかと冷ややかな目を向けられることが多かった。かつてのチームメートも主として研究しているものは別にあって、あくまで心霊現象の研究は趣味に近いものとしており、専門にしているのは私だけ。

若く、幼稚だった私は、そんな世間を見返したくて、AIに予想できることが全てではないんだと証明したくて、(いや、本当は自分でも自分の研究が意味のないものだと思っていたから、自分の研究のその意義に確信を持ちたかったのかもしれないが、とにかく)どうにかして実際にこの目で心霊現象を確認したいと願っていた。彼女も、私の話を滝のように浴びて考えが移ったのか同じような望みを言うようになった。私たちはお互いに、研究者としてだけでなく、人として、恋心とも呼べる好意を持ち始めていた。

そして約束したのだ。いつかどちらかが死んだ時、絶対に相手の前に出てきて、二人の願いを叶えよう。それは、そう、二年前。彼女が別の研究で大きな成果を収め、より大きな会社に引き抜かれて退職する時だった。


でも、その後、それから…?彼女はどうなった。


先ほどから、湧き出る血の赤がどんどん暗くなっている。勢いも止まりつつある。自分ではない何かが、カルシウムを投与して割れ目を塞ぐからだ。下にやっていた目線をバッと茶色い瞳に帰す。


「今。今思い出した。なんでだろう、こんなに大切なこと。」

「約束果たすのにだいぶかかっちゃいましたよ〜!」

「ごめん、まだよく分かっていなくて。だって君は、ここにいるわけないんだ。私とは別のところで、でも私と同じように研究に勤んでいるはずで。」

「事故です。予定時間に遅れてしまいそうだったので、ちょっと近道をしたんですよ。勝手なことはしちゃだめですね。機器同士の位置情報の連携が済む前に移動しちゃったもんだから、誰もいないと判断されて来た車にぶつかっちゃって。」


少しでも和やかに伝えるためにか、彼女はふんわり微笑んでいる。しかし、博士の心臓には目がついていない。どす黒い赤に悲しみが混ざってさらに汚らしくなる。


「でも、こうして約束が果たせたから良かった。ずっと話しかけてたのに長いこと見向きもしなかったんだから。ちゃんと私のこと活かしてくださいね。」

「分かった、絶対。ありがとう。」


続けたい言葉はいくらでもあった。しかし、人に届く言葉は選ばなければならない。博士は部屋全体を見まわしてそれを探す。毎日毎日訪ねてここで長い時間を過ごしているのに、博士は、どこにあるか見当もつかない。研究に没頭できる唯一の憩いの場なのに、今はなぜだかその白さが気持ち悪い。眩暈がする。潤ったはずの皮は、その血が蒸発するのでさらに乾き、ヒリヒリ痛い。

痛みに耐えかねてしゃがみ込むと、いつの間にか落としてしまっていた集合写真が飛び込んでくる。まっすぐに感じた懐かしさが、実際は鏡の割れたところから来ていたことに気づいた。分からない、知らないのだ。彼女以外、誰の顔にも見覚えがない。二年、たった二年前までは同じチームであったのに。訳がわからない。動悸がする。弱まっていたように思えた鼓動が、遅れを取り返すようにはっきりとその形を感じさせる。そのおかげでまた頭蓋骨にぐっと圧力がかかって、また割れる。


縋る思いで見上げると、そこにはもう誰もおらず、誰かがいた場所には血溜まりができていた。博士の目はそれを見とめた瞬間に聴力を取り戻す。息を吹き返すアラーム音。怒り狂っている。座り込んだまま腰を上げられない博士は止めるとこができない。なす術がないので、それと自身の心臓とが交互に共鳴し合っているのが頭に響くのみであった。